[現場スケッチ] 人と動物、見知らぬ存在たちが互いに場所を譲り合う... ユン・イェジン《見知らぬ連帯》
ギャラリー・カラービートで開催されたユン・イェジン作家の個展《見知らぬ連帯》が、先月11日に幕を閉じた。今回の展示では、異なる存在同士が完全に理解し合えなくても、それぞれの姿のまま同じ空間に留まり、共生する姿が描かれている。
絵画の中の動物は、時に人間の感情を代わりに表す象徴となったり、傍らを守る存在として登場したりする。ユン・イェジン作家もまた、以前の作品において動物や自然を、傷ついた自分を慰め、再び立ち上がらせる存在として描いてきた。
しかし今回は、人と動物が一方的に慰めをやり取りする関係から一歩先へと進む。異なる存在たちが完全に理解されないまま、それぞれの姿で同じ空間に留まり、時には互いの境界が曖昧になりながら一つの風景を作る。そうしてユン・イェジン作家は、見知らぬ存在たちの間でも可能となり得る「連帯」の姿を画面の上に展開した。
ギャラリー・カラービートにて、ユン・イェジン作家の個展《見知らぬ連帯》が去る11日に幕を閉じた。今回の展示で作家は、以前とは異なる作品スタイルを見せた。展示を企画したリュ・ジョンウォン・ギャラリー・カラービート代表も「ユン・イェジン作家の作業が次第に定着するにつれ、作品のスタイルや雰囲気が拡張していく姿を見せており、企画者として誇らしい気持ちだ」と説明する。
今回の《見知らぬ連帯》では、このような関心が再び「関係」へと向かう。ただし、以前の作品で語った共存よりも一歩進んで、互いを完全に理解できなくても共に生きていける関係を見つめる。画面の中の人間と動物、馴染みのある、あるいは見知らぬ形象たちは、誰かを中心に明確な関係を結ぶよりも、互いにすれ違ったり、避け合ったり、寄り添ったり、重なり合ったりしながら一つの場面を作る。
これは、互いの違いをなくしたり、すべての生命を同じ方法で見ようとしたりするという意味とは少し異なる。むしろ、最後まで知り得ない部分や見知らぬ状態をそのまま残したまま、それぞれの場所を認めることだ。傷ついた自分に送る慰めと希望から出発したユン・イェジン作家の作業は、今や異なる存在たちが一つの世界でどのように共に生きていけるのかを問う方向へと広がっている。
作品の中の少女または女性たちは、虚空をぼんやりと見つめている。何か人生の目標を失ったかのような姿だが、彼女たちの傍らには動物や植物のように生命力を持つ存在がいる。彼らは少女を見つめたり、傍らに留まったりする。眼差しもまた明確だ。
互いに言葉が通じない存在ではあるが、傍らに留まることだけで慰めを与えているかのような感覚を与える。少女もそれを分かっているのか、しっかりと抱きしめたり、手を握り合ったりする。暗い背景の中でも、彼らの傍らには希望があるであろう光が存在する。
〈黒い角と赤い皮〉の中の滴り落ちる雨水、〈見知らぬ体たちの方向〉の白い雪、〈夜が私たちを飲み込む前に〉の中の輝く三日月、〈光が届くところまで〉の少女が手に持っているランタンまで。光があることで、彼らの表情はただ悲しく見えることはない。
今回の展示以前のユン・イェジン作家の作品の中では、概ね暗いトーンのカラーが支配的であった。妙でありながらも暗いカラーが、作品の中の生命体や人間の姿と調和し、「悲しみ」、「挫折」、「苦痛」という感情が感じられた。
ところが今回の作品の中では、比較的カラーが多様になり、作家がポイントを置いた部分にだけ照明が灯るかのように、明るい感じを与える。動物と人間、自然が作る関係は、文字通り「見知らぬ」ものかもしれないが、その姿は希望に満ち、美しいエネルギーを伝える。彼らが作る関係が、作品を見る人々に妙な力を伝えるわけだ。
展示作品の中で唯一、明るい背景と時間帯を持っている。涼しくも肌寒い秋風が吹いているような葦の森で、少女が涙をボロボロと流している。悲しくて流す涙だろうが、表情だけは落ち着いている。
乾燥した秋の空気の中で、葦に自分の涙だけでも分け与えようとする意志も感じられる。それほどまでに、作品の中の少女が、自身が持つ辛い感情をある程度解消しているのではないだろうか。以前の作業で人生の苦痛と悲しみを受け入れ、解消し、傷を乗り越えて立ち上がったように、この作品の中の涙もそのような意味の延長線上のように感じられる。悲しみは分かち合えば半分になるという言葉のように。
人間が登場せず、昆虫のみを前面に押し出した作品はこの二点のみのようだ。誰もが忌避するハエのような羽虫が主人公である。羽に反射した妙な光を活かし、蝶のような優雅さを表現しているが、「ハエ」という昆虫が持つ固定観念のせいか、美しくは見えない。周囲を警戒しながら生き残ろうとする生命の執念が感じられる。
〈キョルソク〉では、人間の迫害を避けて長く生き残ろうとする羽虫たちの決意が伝わってくる。何を話しているのかは分からないが、どうすれば死なずに済むのか、その方法を互いに議論しているような感じがする。
「団結すれば生き、分裂すれば死ぬ」という諺にふさわしい姿だが、このように集まっていると、ハエ叩きが飛んでくるかのようだ。果たして彼らにとって、長く続く生命とはどのような意味を持つのだろうか。作家が言うように、互いに姿も異なる見知らぬ存在であっても、「関係」を結ぶべきなのだろうか。多くのことを考えさせられる。
動物と絆を結びながら力を得ていた少女は、今や姿が変化した。いささか奇妙な姿だが、鹿の頭蓋骨を仮面のように被ったり、顔が鹿へと変わったりしている。互いに支え合っていた存在たちが一つに結合することで、悲しみや絶望よりも、固く生き抜こうとする意志が伝わってくる。背景もまた、数多くの流れ星が降り注いだり、激しい風が吹いて木の葉が舞い散ったりする様子だ。
動物となった少女は以前のようにただ静かに立っているだけだが、ダイナミックな背景を通じて、そのエネルギーだけは以前とは違うことを視覚的に表現している。
今度は森から水辺へと背景が変わった。水に落ちたような少女は寒さに震えているようだが、体の半分が魚へと変わってしまった。そんな彼女の傍らには、細長い鰭を持つ魚たちが近づいてくる。太い木の根が満ちており、深い水ではないが、少女にとっては障害となり得る場所だった。そのような場所で人魚へと変化することで、絶望を乗り越えて立ち上がることとなった。
〈水鱗の夜〉では、人魚へと変わった少女が一段と成熟し、堂々とした眼差しをしている。彼女の傍らには、いつの間にか魚の代わりにヤギたちがいる。幻想的な深い森の中で木に腰掛けている少女は、もはやどのような悲しみが訪れても乗り越えていけそうだ。
水辺を背景に、自然と次第に同化していく姿を見せている。水に映った姿だが、ヤギが見えたり、透明な水の中に顔の代わりに手が映り込んで見えたりする。そして最後には、自身の姿そのものが写実的に現れる。
ヤギと手、そして自身の顔が次々と重なり合う姿は、人間と異なる生命の境界が固定されたものではないことを示すと同時に、異なる存在たちがそれぞれの姿を維持したまま一つの風景を成す「見知らぬ連帯」を見せている。
自然や動物と共に過ごしてきた少女は、同じ人間からもエネルギーを得ているようだ。〈安息〉という名の通り、草むらに横たわる男女は一頭の黒いヤギを抱き、安らかな表情を浮かべている。人間と人間、そして動物まで、三つの存在が互いの体温を分かち合うように一つに溶け合い、一つの連帯を成している。男女は共に暗い色の服を着用しており、中央に位置するヤギも黒色であるため、三つの存在が自然に同化しているような印象を与える。
瑞々しい赤いリンゴだが、損傷した姿だ。青い絵具を散らしたような様子や、割れた様子が、生命力を失ったかのような姿を見せている。近くで見つめた傷の断面は、まるで目や名前も知らない生命体の一部のように、見知らぬものとして迫ってくる。
私たちが慣れ親しんできた「リンゴ」という形象が崩れる瞬間である。作家はこのように、完全さから逸脱した存在を画面の外へと押し出すのではなく、そのまま留まらせることで、見知らぬ不完全な状態までも一つの存在として見つめさせる。
前述の作品たちが「連帯」というエネルギーを与えるならば、この作品は以前の作業で見せた絶望と悲しみを含んでいる。見知らぬ存在たちとも関係を結びながら生きていくが、いつでも苦痛が訪れ得ることを忘れてはならないというメッセージが込められているようだ。
5点の〈凝視〉連作は、背景だけを見れば、平和で美しい水辺の夜の風景だ。作品が配置された順序に従って鑑賞すると、水辺に座っていた人が次第に水の中へと入っていく。他の場面では、一羽のアヒルがただ悠々と泳いでいるだけだ。そしてついに誰も残らず、明るい月光だけが水辺を照らすことになる。
人間とアヒルが同じ水辺に次々と登場することで、異なる存在の境界が一時的に曖昧になるような感覚を与える。ある存在が消えた場所には別の存在が留まり、さらにそれさえも消えた後には風景だけが残る。人間と動物が次々と同じ場所を通り過ぎて消えていく姿は、異なる存在たちが一つの世界を共有していることを示している。誰かが去った後も、その場所は他の生命や自然へと繋がり、互いに関係なさそうに見える存在たちもまた、同じ風景の中で繋がっていることを考えさせられる。
展示会では、傷ついた自分自身を慰めることから、異なる存在との共存と連帯を見つめることへと発展してきたユン・イェジンの作品世界を見ることができる。
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